東洋哲理コンサルタントは、スタッフがモチベーションを抱き、
目的意識を持って主体的に動くことを促すために、陽明学の社員教育を提唱します。
15世紀から16世紀に、明代の中国で活躍した儒学者である王陽明によって確立された儒教の一派「陽明学」
従来の儒学の解釈に、
軍人で実務家であった王陽明は、同時に、儒学(朱子学)以外に仏教、道教、禅など、東洋の哲学に広く精通していたため、
それらの東洋哲理の実践的で日常生活で役に立つ部分を組み込んで、
新たな解釈として提唱したものである。
徳川幕府を支えた哲学は朱子学である。
朱子学は、陽明が生まれる500年前に儒学を体系化したものであり、当時のエリート官僚必須の科目でもあった。
超エリート家庭に生まれた王陽明も、この朱子学を学んだが、そこに疑問を持ち、より時代にあった実践的な理論として、新たな解釈を持ち込んだ。
実際は軍人として最高峰までいった彼のこの解釈は、弟子たちの手により「伝習録」としてまとめられた。
この伝習録が江戸幕府が始まったばかりの17世紀の日本に伝わり、近江の中江藤樹が登場する。彼はこの知識を伝授することに生涯を支えた。
近江商人で有名な近江の地は、中江藤樹という、道徳的な芯軸をもった近江は、日本経済の道徳的基盤を育成する地になるのだ。
近江商人の経営哲学のひとつとして、『売り手によし、買い手によし、世間によし』を示す『三方よし』が広く知られている。
陽明学は江戸時代中期に、大坂の商人たちが設立した学問所「懐徳堂」でも教えられる。
懐徳堂は、大坂の五人の有力町人「五同志」を中心とする半官半民の学校」であったため、身分制の当時としてはかなり自由な精神で臨んでいた。
朱子学を主軸にしたが、現実を離れた机上の空論ではなく、具体的な経世に主眼を置くものであり、江戸後期、その懐徳堂で学んだのが、昌平坂学問所総長、佐藤一斎であった
昌平坂学問所総長とは、
今でいう、東京大学の総長である。
この佐藤一斎塾の塾頭が、
佐久間象山・山田方谷であり、その下に、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬と続いていく。
佐藤一斎から直接学んでいないが、西郷隆盛は佐藤一斎に私淑しており、晩年にまとめた『南洲翁遺訓』には、佐藤一斎『言志四録』から自ら撰び座右の誡めとしていたものが収録されている。
つまり、明治維新のほとんどが、この陽明学の徒であったのだ。
一方、幕府の最後の老中にして、大政奉還を企画した板倉勝静の参謀は、佐藤一斎塾の塾頭の山田方谷であった。
その方谷の弟子、三島中洲は、
大正天皇の先生であり、この三島中洲の親友であり、ともに一橋大学を立てたのが、日本資本主義の父、渋沢栄一である。
戦後の陽明学者として有名な人物は、安岡正篤であり、彼は歴代首相のブレーンと呼ばれ、「平成」の元号の発案も安岡だと言われる。
つまり、今の我々の経済的道徳規範を形作ったのは、陽明学である。